
ラーマカムヘン
大王碑文 |
タイマッサージの最古の記述は、3代目のラーマカムヘン王(1239~1317年))によるものとされ、1986年マンゴー畑でラーマ4世によって発見されたラーマカムヘン大王碑文に、マッサージよる病気の治療にふれてあるとされています。
つまり、タイマッサージの歴史は2500年ではないとしても、もしかしたら、700年くらいはあるかもしれないと言うことになります。 |
このラーマカムヘン王は、タイ文字を作った王様としても知られ、タイの「良き王様」のシンボルで、丘の上にタイハーブ(薬草)園を作って、国民が病気になると、そこからタイハーブを持ちかえらせ、病気を治させた言う話もあります。
が、そもそもラーマカムヘン大王碑文が、ラーマ4世のねつ造と言う話もあります(汗)。
この話はタイでは他言無用です。 |
アユタヤ王朝(1350-1767年) |
スコータイ王朝は100年くらいで衰退し、 タイマッサージが、はっきりと出現するのは、次のアユタヤ王朝(1350-1767年)時代になります。
バロムトライロークナート王(1448-1488年)の時代には、宮廷の医局にタイマッサージ課があり、タイマッサージ師は医者として王から広大な荘園を与えられたいたようです。
医局には、インド人、中国人、フランス人の医者もいました。
アユタヤ王朝の黄金期だったナライ王(1656-1688年)の時代には、「ナライ王のハーブ処方」が編纂され、これはタイ伝統医学の基本原理となっています。
17世紀にアユタヤ王朝を訪れたフランスの外交官で『シャム王国史』(1691年)を書いた シモンド・ラ・ルベールは、タイマッサージの様子を「タイでは、誰でも病気になると、タイマッサージの専門家が病人の体にまたがりエネジーラインをのばしたり、足でふんずけたりする。妊娠中のお母さんは、体を子供に踏ませることで、苦痛の少ない安産ができると考えているようだ。」と書いています。
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タイマッサージが盛んに行われていたのが文章からうかがえます。
ただ、ラ・ルベーツは、白人らしく、「シャムの医学は科学とはいえず、野蛮で、手術や解剖学に無知で、口伝のハーブ薬を処方するだけ」とアジア人を軽蔑しつつ、白人らしく「でも多くの病気に治っちゃうんだよなあ」と正直に述べています。 |
タイマッサージの歴史は、どうやらおおまけにまけても、500年くらいは確実にありそうです。 |
日本の国家資格であるマッサージの歴史が100年あまりですから、タイマッサージには十分な歴史の重みがあるわけです。
無資格者と非難されたときは、心の中で、これで言い返しましょう。 |
アユタヤと言えば、江戸時代にこのアユタヤ王朝で、日本人町の頭主として、王様に徴用され、官位を授けられて活躍した山田長政(1590-1630年)は有名です。
日本人町は、最盛期には5000人の日本人が住んでいました。
山田長政は、日本人らしく誠実に任務に努めますが、中国人勢力の陰謀で、王様を裏切ったとして、島流しにあい、日本人町は焼き討ちされ、のちに毒殺されます。
※1970代に、ベトナム戦争終結などにより経済の低迷し、学生運動やデモ活動が活発になりカセサート大学の学生たちにより「反日クラブ」が結成され、日本製品不買運動が盛り上がりました。
もともと贅沢品不買運動が飛び火したものですが、タイではこういう有名大学の子弟たちはほとんど中華系であり、こういうデモ活動は資金が必要なのであり、アジアにおいては、いつも日本VS中国の利権争いの歴史がバックグラウンドに潜んでいます。
冷静で鋭い目を持った王様であったラーマ9世は、「デモ隊の使うスピーカーは日本製、警察のパトカーは日本製・・・」とこの学生たちの運動の矛盾を揶揄しました。
バンコクから1時間半くらいのアユタヤ遺跡、日本人町跡は、タイの観光地となっていいます。 |
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トンブリ王朝(1767-1782年) |
アユタヤ王朝は、1767年に隣国のミャンマーに滅ぼされ、焼き払われます。
1769年中華系のタクシン将軍が一時トンブリ王朝(1767-1782年)を起こしタイ王国を再統合します。 |
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アユタヤの遺跡 |
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アユタヤ時代のタイ伝統医学の復興 |
ラーマ1世(1782-1809年) チュラローク王 |
1782年に、タクシン王が発狂したとして、その家来のチュラローク将軍が、王を殺害し、チャオプラヤ河の対岸のバンコクに起こしたのが現在のバンコク王朝(チャックリー王朝)で、チュラローク王は、ラーマ1世と呼ばれます。
現在は、ラーマ10世の時代です。
※タクシンと言えば、2001年登場した、カリスマ首相のタクシン以来、タイは20年間、タクシン反対派との政治紛争が続いています。
タクシン首相は、ラーマ9世との確執があったので、「タクシン将軍生まれ変わり説・タクシン怨念説」があります。
軍事クーデターによるタクシン首相の国外逃亡、スワナプーム空港占拠事件、バンコク焼き討ち事件、バンコク都市シャットダウンデモ、軍事クーデター、美人の妹インラック首相国外逃亡、そして現在軍事政権的色合いを半分残した政権へと続いています。
タイの失われた20年とも言えます。
もっともタクシン将軍と、タクシン首相は、厳密にはスペルと発音が違います。
この話も、タイでは口にチャックです。 |
バンコク王朝の歴代の王様たちは、アユタヤ王朝を理想とし、その復興に努めました。
現在のタイ伝統医学もアユタヤ王朝時代の知識の復元です。
ラーマ1世は788年2年2ヶ月28日の歳月をかけてアユタヤ時代からあるワットポータラーム寺院を改修し、ワット プラチェ トゥポン ウィモンマンカララーム寺院(ワットポー)に改名、寺の医者や、民間の医者を集めて、タイハーブやタイ伝医学の知識を集め、この壁に刻ませました。
そしてワットポーの境内にルーシーダットン像を土で作らせ金箔を貼り付けましたが、このルーシーダットン像は現存せず、いくつのルーシーダットン像が作られたのかは不明です。
しかし、これが忽然と現れた「ルーシーダットン」の始まりです。
ラーマ1世は、マンゴ畑で、偶然ラーマカムヘン大王碑文を発見した王様ですが、このラーマカムヘン碑文もルーシーダットンも、復興と言うより、ラーマ1世のアイデアではないかとも言われています。
この話題も、またタイでは他言無用ですぞ。 |
ラーマ2世(1809-1824年) |
ラーマ2世は宮廷医に命じて、ワットラーチャオーロット寺院にタイハーブ、タイマッサージ、ルーシーダットンの知識がを彫刻させました。 |
ラーマ3世(1824-1854年) |
16年と7ヶ月の歳月をかけてワットポー寺院を再改修し、劣化の激しかった土造りのルーシーダットン像を亜鉛と錫を使って80体作らせ、ポーズの効能を35人の王族、僧、詩人に詩の形式で刻ませました。
そしてそれを写本させたため、現在でもその一部がコピーとして残っていますし、現存するタイ伝統医学やルーシーダットンの資料は、ほとんどが、この時代に作られ調刻されたものです。
そしてほとんどこれらを参考にタイ伝統医学のテキストが作られています。
タイ伝統医学は、①タイハーブ②タイマッサージ③呪術の構成ですが、③呪術の部分は現代では省かれる傾向にあるようです。 |

ワットポー壁画 |

ルーシー像 |
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ラーマ4世(1824-1868年) モンクット王(王様と私で有名) |
宣教師で医師でもあったアメリカ人ダン・ビーチ・ブラッドレーによりタイで初めて外科手術が行われ、天然痘の予防接種に成功しています。
このころから現代医療が流入し始めました。
ブラッドレーは、「薬を扱う宮廷医の他に、マッサージを専門とする治療集団がいて、すべての筋肉・腱・神経・血管の位置を熟知し、それらに病気が集まったり集中したりしやすいと考え、どこを触れ、どの位強く、どの位長く圧したり捻ったり引っ張ったりするかを熟知している。」と書き残している。 |
ラーマ5世(1868-1910年) チュラロンコン大王(日本では明治天皇の時代) |
ラーマ5世の命によりタイ伝統医学大全(タイマッサージを含む)が編集される。
1887年現代医療のシリラート病院がオープンし、シリラート医学学校では、伝統医学と現代医学の両方の教育が行われ、タイ伝統医学のテキストも作られました。 |
ラーマ6世(1910-1925年) |
タイ伝統医学の診療や講義を禁止。
ロックフェラー財団の近代医療への援助が開始され、「非科学的な」伝統医学の排除の方向性が促進されてくる。
ロックフェラーによる各国への援助は並々ならぬものである。
ロックフェラーは、アメリカの一時石油を独占した大財閥であるが、この石油が頭うちになると、石油からたくさんのを医薬品製造した。
この特許のある高価な医薬品マーケットを創造したともいえないことはない。
皮肉にもロックフェラー家の健康法は、薬を飲まないこと。
今回コロナ禍で有名になったジョン・ホップキンス公衆衛生大学もロックフェラーの援助で設立されました。 |
1933年、ランナータイ王国が、チェンマイの県として、タイの国の一部になる。 |
ラーマ8世(1934-1946年) |
タイ伝統医学が試験免許制となる。
タイマッサージはタイ伝統医学から、除外され、リラクゼーションのタイマッサージ分野のみが合法となる。
つまり非科学的な治療のタイマッサージは禁止。 |
1960年代 |
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ベトナム戦争勃発によりタイがアメリカ兵の駐屯地となった。
アメリカ兵のの「休息と娯楽」として、パタヤなどで、ゴーゴーバーや、マッサージパーラーなどの風俗産業が盛んになった。
マッサージパーラーは「タイ古式マッサージ」の看板が売春の隠れ蓑として掲げられ、欧米、アジア、中東から男性観光客が急増した。
性的なサービスを行う鏡窓のひな壇(金魚ばち)で有名なマッサージパーラーは、今でも「タイ古式マッサージ」の看板をあげていることが多いです。
日本と同じように、タイでも売春は禁止されてますが、これも日本と同様にお風呂場で、一瞬にして恋愛感情が芽生えてしまうストーリーです。 |
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ラーマ9世(1946-2016年) |
1957年ワット・ポー伝統医学学校が寺院内に設立されたが、タイマッサージは教えていませんでした。
そして、1961年にワットポーにご訪問されたプミポン王の「タイマッサージは教えていないのか?」の一声により、ワットポーでタイマッサージを広く一般の人々に教えることが実現しました。 |
ワットポータイ伝統医学校の経営はもともと赤字続きで、檀家であった名士トロンチット家が経営を引き継ぎましたが、タイマッサージ教え初めてからも、タイマッサージのイメージは風俗と結びついていたため、あまり生徒は集まりませんでした。 |
1970年代半ば |
近代医療に押され危機感をつのらせるタイ伝統医学団体を中心に、タイ伝統医学復興運動が盛んになる。 |
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1978年 |
ワットポーに初めて外国人が門戸を叩き、タイマッサージの外国人生徒受け入れが始まる。 |
1982年
タイ応用伝統医学の専門学校のアーユルヴェーダ学校が設立。(マッサージは宮廷式を教える)
チェンマイのオールドメディソンの2代目校長は、この学校の卒業生です。 |

宮廷式 |
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1985年 |
WHOのプライマリヘルスケア政策、輸入薬品の薬害問題から市民運動として「タイマッサージ復興プロジェクト」が開始し、代替医療としてタイマッサージの標準化や知識の啓蒙、研修などが行われ始めた。
各国が購入する先進国の外国の特許付きの高価な医薬品も 財政的に大きな負担になっていたことも背景にある。 |
チェンマイ式の生みの親シントン氏は、 1957年にバンコクのワットポーで伝統医学を学び数年教員を務めたが、チェンマイに帰郷し、オールドメディソン(シワカ伝統医学病院)を設立。
マッサージコースを開講し、生徒の約9割が外国人であった。
このころ、講師を務めていたシントン氏のいとこが、独立して設立したのがITM。
シントン氏は猛反対したが・・・。 |
1990年代 |
タイ政府がタイ伝統医療の復興と制度化に乗り出し、伝統医療・ハーブ・マッサージを近代医療システムに接合させる方針を打ち出した。 |
1991年 |
ワットポーは、アメリカで薬学を学び、当時ドイツの製薬会社のマネージャーだったプリーダ・タントロンチット氏が、父親のカムトン氏から引継いだ。
現在のバンコク式タイマッサージのカリキュラムは1991年に元タイ伝統医学協会会長のカムトン氏が教師たちを集め、タイ伝統医学のタイマッサージをベースに、難しい技や曖昧な技を省き、安全で誰でもでき、効果の高い技のみを集めて標準化したものとされています。 本来タイマッサージは徒弟制度的にテキストもなく教えられてきたが、マニュアル化されることでマッサージ師の大量生産が可能になった。
このタイ伝統医学的な厳格なタイマッサージから脱皮して、タイマッサージを単純で、平易で、覚え易くした試みが、ワットポーを外国人に人気たらしめ、以後たくさんのワットポー式セラピストを排出し、「タイ式マッサージ=ワットポー」と言われるようになった。 |
1993年 |
1993年からタイ伝統医学復興プロジェクトが進行し、タイ伝統医学の知識を整理しデーターベース化する試みが行われる中で、タイ伝統医学の中のタイマッサージ師の登録が再開されています。 |
1997年頃
ワットポーのマッサージ学校生徒数は年間約1,000人で6割が外国人であった。 |
2000年
チェンマイのオールドメディソンが、ワットポーに先立ち文部省の学校認可を取得。 |
2001年
タイマッサージに伝統医学の治療としての免許が与えられた。 |
2003年 |
タイマッサージスクールは外国人無しでは経営は成り立たず、外国人の半分が職業目的で学習に来ている。
ワットポーは、外国人に教えているのに、タイ政府の文部省の認可を取るのは無意味と、当初はとらなかったが、2003年文部省認定のスクールになった。
現在ワットポーのタイマッサージスクールは公式にはワットポー本校、ノンタブリ校、ナコンパトム校(スパスクール)、チェンマイ校の4校です。 |
ワットポー・スクンビット校は、1998年に当時旅行会社を経営していた松永玲子さんが、ワットポーのプリーダ理事長に直談判のすえ、本校から講師派遣をとりつけて日本人向けに開講したスクールです。 |
チェンマイでも、同じような形式で、オールドメディソンの派遣校 「夢の家」が開講。
しばらくオールドメディソンの先生たちによる180時間のティーチャーズ・トレーニングコースがプライベートで開かれていた。
先生たちは、ふだんは30人もの生徒を相手にする集団授業なので、生徒に触れることも無く、このプライベート授業はとても新鮮で楽しいと感想をもらしていた。
引退してチェンマイで車いすで療養していた日本人の男性が、オールデメディソンのS猫先生にお願いして、毎日タイマサージのリハビリの施術してもらった。
そして半年後奇跡的に歩行が可能になった。
その後しばらくして亡くなられたが、奥さんに残した遺言は、「このS猫先生のために何か援助をしてやって欲しい」。
そして、S猫先生のために作ったのがこのマッサージスクール「夢の家」。
が、少し前に日本に渡ったS猫先生は、チェンマイに帰ることがなかった。
夢の家は1年くらいで、50名くらいの日本人の生徒を排出して閉校となった。
※私は通訳として、この学校に関わったが、タイマッサージに関する知識や考え方は、このオールドメディソンの校長先生や先生たちとの交流によって得たもの。
オールドメデシソンの理論のテキストを日本語に訳したことも大きい。 |
2011年 |
CCAチェンマイが、文部省の学校認可、及び厚生省のカリキュラム認定を受けた。
文部省の認可は、私立の職業学校としての設立許可で、集団の生徒にタイマッサージを教えるにあたって、実技の教室の広さ、理論講義室の広さ、保健室、トイレの数、階段の広さなどの基準をクリアしなければならない。
いろんな意味で莫大なお金がかかった。
・・・タイはそんなとこですから。
厚生省の認定は、カリキュラム内容にかかるもので、ワットポー、オールドメディソンなど、文部省の認可のみをとっている学校も多い。 |
少人数の生徒を教えるにあたっては、プライベートスクールとして、特に認可の必要はない。
日本人に有名な、多くの日本人セラピストを排出したチェンマイのロイクロマッサージは、そんなプライベートスクール。
先生のスキルが高ければ、外国人にとっては政府の認可や認定は無意味。
地球の歩き方で、チェンマイで紹介しているるタイマッサージスクールはなぜかITMとロイクロ。
惜しくも、このコロナ禍で閉校になった。 |
タイ政府はタイマッサージを観光や医療の重要な分野として位置付ける一方、タイマッサージを安全化、標準化、平易化、法規制化することで「誰でもできる」金太郎飴的なタイマッサージ師を生産し始めた。
こうして伝統的で奥深く、職人的で、ダイナミックで多様な「土地の知恵」は切り捨られて行くが、外国人のタイマッサージのリピーターは、貪欲に切り捨てられたタイマッサージの魅力を求めて何度もタイにやってくる。
金太郎飴タイマッサージから創造的破壊と人間のぬくもりの再構築へ向けてのタイマッサージの時代へGO! |
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ランナータイ王国(チェンマイ)の歴史 |
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スコータイ王朝があった頃に、チェンマイを中心とする現在の北タイ(ランナー)地方には1296年にランナータイ王国という王朝が成立していました。
そして、チェンマイが、タイの国の一部としてチェンマイ県になるのは、1933年のことで、約90年前のことです。 |
このランナー地方は、タイ王国とは別のランナー700年の歴史と文化を持つ地域なのです。
それゆえにタイの歴史からは除外されているのです。 |
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チェンライのマンライ王がモン族のハリブンチャイ王国を倒し、チェンマイに1294年ウィアンクムカムに遷都しましたが、洪水により、1296年現在の旧市街に引っ越したのがランナータイ王国の始まりです。 |
このウィアンカムの一時遷都は、最近になって遺跡が発見されて明らかになりました。 |
過去4回大家の都合で引っ越ししたさまようCCAの新し学校CCA Touchは、この遺跡群の中にあります。 |
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マンライ王は、パヤオのガムムアン王、スコータイのラーマカムヘン王と協力して城壁のある強靭な町を作りました。
3人の王様像は、今でもチェンマイのシンボルです。
一時はラオス、ミャンマー、中国まで領土を広げました。
また仏教を保護し、第8回世界仏教会議がチェンマイのジェットヨート寺で開かれています。
その後16世紀半ばから200年ミャンマーに占領されますが、この時期、ミャンマーの繊細な文化と融合し、ランナー文化が開花します。 |
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ランナータイ王国には、ランナー文字と言う独自の文字があります。
地理的にもミャンマーに近く、英国企業がチーク伐採事業で進出し、チークはマャンマーの港に送られ、通貨はインドルピーが使われていました。
東インド会社があったからです。 |
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19世紀後半、ダラーラサミット妃をタイ王国のラーマ5世に嫁がせて、タイ王国の援護を受け西洋による植民地化を逃れましたが、1933年タイの国に統合されます。
チェンマイ人は、今でもランナーとしての文化アイデンティティが強いです。 |
タイ人にとって、チェンマイは行ってみたい町ナンバー1です。 |
チェンマイ美人で知られるこの地は、昭和の時代(1970年代)日本人の玉●さんが、20人くらいの若い少女たちをかこって、ハーレム生活をしていたの事件(タイ的には人助けで感謝)が有名で、日本の女性にはイメージが悪いが、昭和のおっさんたちには夢見る憧れの地でした。 |
最近では、そのピンクなイメージ薄れ、物価や家賃が安く、インターネット環境が整備されているため、定住地を持たないG(グローバル)型のノマドワーカーの集まるクールでホットな街として注目されています。 |
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